今川義元の今川館(義元公451回忌を偲ぶ特別企画)

桶狭間の戦いから451年が経ちました。 今川義元公の追善ブログです。 てかただのブログじゃん?( ̄ロ ̄;)現代戦国大名の今川義元(御所)のシュールでリアリティーに富んだ室町ックな日々をお楽しみ下さい


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御所の今川家では…ただ今、何万光年か遅れで
ニンテンドーDS『信長の野望烈風伝』中…


定恵院('▽')ノ
『御所さんよ』


御所(・ω・)/
『何じゃ私は今、“美濃攻め”で忙しいんだが…』


定恵院( ̄o ̄;)
『ゲームでしょ』


御所『何を申すか
ほら、見てみろ。我が今川家は武田・北条と手を結ぶ事で後顧の憂いをなくした。
その勢いで尾張の信長を滅ぼした。
さらに勢いに乗じて同盟してる北条のいる小田原城の下に金山があったから、こっそり支城を作った(笑)』


定恵院('▽')ノ
(現実逃避してるな)『ほう、今川家強いんだね』


御所(*ノωノ)
『“新武将登録”機能を使い、ゲームに登場しない今川家臣を作ったんだよ。
数は力。人は石垣ってやつ
おっと、そいつは我が今川家の大敵武田のセリフだったねぇ』



定恵院( ̄∀ ̄)
『テンション高いなぁ…(笑)
ちなみに誰を作ったの?』


御所(・ω・)/
『いい質問ですね。
庵原忠胤・元政、天野景貫、福島春興、小笠原氏興、関口氏広、瀬名氏俊、今川氏豊、奥山松夜叉丸…あと一宮や富士も作った(笑)』


定恵院o(^-^)o
『いっぱいいたんだね』



御所(*ノωノ)
『これで天下は我が今川家が…だが将軍家を最後までお守りするプランもいいな』


定恵院o(^-^)o
『…ところで、実はホームベーカリーを買ったんだよ』


御所(◎o◎)
『ホームページ?』


定恵院(ノ-_-)ノ
『ベーカリー!! パンを作る機械』


御所(〃▽〃)ノ
『それでいい匂いがしてたのですね、ジャムおじさん』


定恵院(ノ-_-)ノ
『誰がジャムおじさんだ』



御所(〃▽〃)ノ
『…間違えました。バタコさん』



定恵院(・ω・)/
『データ消すよ』



御所(゜□゜;)
『待ちたまへ!!』


定恵院( ̄∀ ̄)
『うちでパンが食べれるんだよ』


御所(「 ̄ー ̄)
『…名は』


定恵院(◎o◎)
『名?』


御所(「 ̄ー ̄)
『この機械の名前だ』


定恵院(◎o◎)
『だからホームベーカリー…』


御所(-.-)zzZ
『それは商品名!名前をつけてやろう』


定恵院(◎o◎)
『どんな!?』


御所( ̄∀ ̄)
『竹中パン兵衛うちの軍師にしよう』


定恵院(・ω・)/
『軍師……あ、お坊さんなんだね


御所(・_・;)
『へ…坊主? あ、そう言う事か。
すまぬ。
我が家は坊主なくては立ち行かぬ国”(甲陽軍鑑より抜粋)だったねぇ。


竹中は軍師だが雪斎長老みたいに僧侶じゃないんだ。
うむ…よく学習しておるな(笑)

じゃあ竹中くんは軍師じゃなくて“パン奉行”に任命しよう』


定恵院(「 ̄ー ̄)
『名前なくても“パン奉行くん”でいいじゃん(笑)』


こうして我が今川家にパン奉行“竹中パン兵衛”が加わりましたとさ。
めでたしめでたし

…全然つまらぬ日常ネタです(実話)


panbee

定恵院o(^-^)o
『全国お菓子市で静岡の“安倍川餅”があったから買ってきたよ』

abekawa1


御所('▽')ノ
『おお!我が今川家の銘菓、安倍川餅ではないか!!』

定恵院
『安倍川餅って戦国時代にもあったの?』

御所
『まあ、似たようなお菓子ならどこにでもありそうだが…その件で私の盟友であるちいさんからの情報を頂いた』

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徳川家康が天下の権を手中にしたのち、駿府城に在って、幕府三百年の偉業の基礎を築いた時代に、家康は、井川(静岡市)の笹山金山や梅ヶ島(静岡市)の日影沢金山などを御用金山として、海野彌兵衛(うんのやへい)を奉行として盛んに金鑛の採掘を行いました。

ある時、家康がこの金山を検分に出向いた際、ある男が餅をつ搗き、豆の粉をまぶして献上したのを食べたところ、大変美味かったので、献上した男を呼び寄せて、この餅の製法を尋ねました。するとこの男が、「この餅は、金山から産出し安倍川へ流れ下る金の粉をすく掬いあげて、餅にまぶしてつくるので『金粉餅(きんこもち)』と申します」と即座に答えました。家康はこの男の奇智を誉め、褒美を与え、改めて、この餅を『安倍川餅』と命名されたということです。

また、この「金粉餅」は、今川・武田の戦国の頃(約四百二十年前)から、梅ヶ島金山で「今年も金が多く産しますように」と神前に供えられて、豊富な産金を祈ったものだとも伝えられております。

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御所
『ちいさん、ありがとう。つまりだ、この安倍川餅という名前自体は徳川家康が付けたという事だな。もっともそれが事実かは不明だ。お菓子に箔を付ける為の自作自演の可能性もある。

そしてここが重要だが、“金粉餅”と言う餅が徳川以前にあったという事だ。さらに混沌とした武田の駿河支配の期間に成立したというよりは安定した今川時代に作られた可能性の方が高いと思う。』

定恵院
『その可能性はあるね』

御所
『うむ。では、我が今川家の栄華を懐かしむとともに、今後の今川家が益々繫栄し、家臣領民共々の発展と活躍を祈念して、この安倍川餅ならぬ金粉餅を頂くとしよう』

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定恵院(◎o◎)
『・・・あれ?』

御所(≧▽≦)
『うむ、美味じゃのう』

定恵院
『ねえ、御所?』

御所
『なんじゃ?抹茶なら点ててやるぞ。ワシのお好みの丸久小山園の“瑞泉の白”と“青嵐”があったな』

定恵院
『そうじゃなくて・・・お菓子の袋が』

御所
『ん?』

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よ、四割菱!?

2011年、今年の夏はとんでもない画期的で斬新な商品と巡り会った。

それがこれである。

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丸久小山園から出た「涼雲」という抹茶である。この抹茶が何故画期的かというと、実はこの抹茶、

『水で溶ける』

のである。これは茶道界の常識を覆した商品といってもいい。

普通、冷茶用として販売される抹茶も、基本的にはお湯で点ててから氷を入れたりする。というのは、抹茶という物は水どころかぬるま湯ですら溶けないの。
溶けてもダマって言って、抹茶の固まりが残ったり粉っぽくなったりする。
抹茶はめんどくさい特性があるんです。

ところがこいつは水から点てれるという。
これはもう、極めて斬新!!

大河ドラマ武田信玄で鉄砲を初めて見た甘利虎泰並みに驚いた!!

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甘利「何じゃッ!?これは!?」


もう少し詳しく説明すると、抹茶は前述のとおりダマになりやすいので、通常は使用する前に「ふるい」にかける。目の小さなザルみたいので漉すの。
そうすると固まりがなくなるので溶けやすくなる。
ところが、この涼雲にいたっては、ふるいすら不要だった。

これが水でも溶ける秘密なんだろうが、抹茶自体が砂のようにサラサラしている。
その分、茶杓に乗せずらい欠点はあるが、、それでもこの技術は大したもんだと感心した。

ちなみにお湯でも点てれた。しいていえば「泡は点たなかった」です。
裏千家の人で「泡が点っていないお茶は出来損ないだ」と信じてやまないオバさん方には致命的な問題かも知れないが、物は試し。是非一度、ご賞味頂きたい商品です。

宿老とは戦国大名を軍政両面から補佐した重臣で、「宿徳功老」と言う意味。
一族や門閥から任命されるのが多かった。

家老は「年寄」「首名(おとな)」とも呼ばれ、宿老よりワンランク下がるが、重職であることには変わりはない。

今川家では宿老とは呼ばす、「家老」で統一され、「朝比奈」「三浦」が就いていた。
義元〜氏真時代の家老は朝比奈泰能・泰朝親子と三浦二郎左衛門(氏満か?)がついていた。

これは『今川仮名目録』による『家老について』の項目から出てくる話だ。
実際、今川氏真の時代に今川家から越後上杉家に書状が送られた時、朝比奈と三浦が連名で書状を書いている事から、今川家のトップだったことがわかる。

しかしこれは公的な立場ではないだろうか。
今川義元の姉妹と婚姻関係で駿府で義元を補佐したと言われる瀬名氏俊や関口氏広などは今川家の一門であり、宿老同様の立場だった可能性がある。

少なくとも三浦などが『仮名目録で指定されているように、俺の方が席次が上だ!!』と面と向かって言えるような環境ではなかったと私は思う。
朝比奈の場合は義元の母である寿桂尼と縁続きであるので、名目的にも実質的にも宿老だっただろう。遠江の守護代のような役割を担っていたし。

まあ、とりあえず宿老ってのは、そういう意味です。

浜名湖畔に君臨した堀江城の大沢氏。
後に高家となり活躍しましたが戦国時代は今川家臣でした。
私も詳しくありませんが本から簡略しながら一部を抜粋しますので資料として役立てて下さい。
('▽')ノ

『旧幕府』と言う明治時代に発行された雑誌に『高家の話』と題された一文が扱われている。
これは遠江堀江城(浜松市舘山寺町)の最後の城主大沢基輔(基寿)が語ったものを筆録したもので高家大沢氏や室町時代の大沢氏の歴史が書かれてある。

以下『高家の話』

『私は戊辰瓦解の節には右京大夫と申しまして幕府に勤めておりました。
大沢と申す家は持明院の末流で高家の始めでございます。旧記は散逸して何もございませんが、徳川家のはじめあたり、当時二条関白某公と図り、足利時代の諸礼式を調べ、式部の一職を設けんとして、大沢、吉良の両家を挙げて高家と称し、諸礼式を司らしましたのが起源でございます。
その後高家と称えます家もだんだん増加いたしましたが、今川氏の末か、織田氏の後で位階を高くし、ことごとく有職をもって世襲の役と致しました。
武鑑で高家をお読みになれば判りますが、六角と申すは烏丸の末、あるいは新田の流れの由良などもございました。

『大沢家は遠江の堀江、堀河の二ヶ所に城をもち、今川に属しておりましたが、家康公のとき徳川に従いました。
高家のうちで高禄なのは畠山五千石を第一とし、小禄なのは品川の三百石でした。
私の家は三千五百石でした。高家の知行はみな地方でした。高家の役高は千五百石と定めてありました。
王政維新まで公武の間のことは高家の役と定まっておりました。
幕府では御所と二条城の間の往復は高家が致しておりました故、大政奉還の時には私がその辞表を御所へ持ってまいりました。
またその時私の官位は従四位下の侍従で、昇殿の出来るわけでした(以下略)』

以上、『高家の話』より

大沢氏は遠江における武家のうちでも室町から江戸全期にわたって連綿とそぬ家系のつながりをみせ、そして高家として一貫した格式を維持していた点できわめて特色ある家柄といえる。
しかし徳川家康が三河から遠江入りした時代には、その去就をめぐって波乱があったし大沢氏の存亡をかけた戦いもあった。

大沢氏の先祖は藤原鎌足の12代の末孫関白道長の次男、大宮右大臣俊家の四男基頼とされる。
大沢氏が遠江の堀江の地に最初に来任したのは基頼の孫にあたる持明院権中納言基家の八代の孫にあたる藤原基秀であった。
藤原氏が大沢と称するようになったのは基秀の子、基久の代からで、これは父基秀が丹波国大沢村に居住していた関係によるものだろう。
丹波国大沢村は現在の兵庫県氷上郡丹南町にあたる。
基秀が浜名湖畔の庄内の里に来住したのは南北朝時代の貞治年間(1362〜1368)であったとされる。

基秀が来遠して以後、大沢氏は
基久―基武―基利―基彰―基輝―基房―基相―基胤
と代を重ねて室町末期の戦国の世をむかえるのである。
この間大沢氏は斯波氏から今川氏へと帰属をあらためるなどして庄内地方における地盤を固め、大沢基房は今川氏の重臣朝比奈氏の傘下にあって各地を転戦していることが記録にみえている。
大沢氏歴代の武将のうち史上に有名なのが基胤であった。
徳川家康が三河から遠江に侵入したのは永禄11年(1568)12月のことだったが、当時基胤は今川氏に従属しており、家康の侵入に抵抗した。
このため家康は井伊谷三人衆といわれた近藤石見守康用、鈴木三郎大夫重時、菅沼次郎右衛門忠久に命じて堀江城の大沢基胤を攻撃した。
井伊谷三人衆による堀江城攻めは永禄12年(1569)3月25日からはじまった。
湖岸に面する要害の城だけに容易に落とす事ができず、近藤石見守康用は基胤の家来新村善左衛門との闘いで重傷を負った。
堀江城の強い抵抗に家康もおどろき、作戦を変えて講和を呼び掛けた。
二度三度と使者を受けた基胤は永禄12年(1569)4月12日に和議を受け入れた。


家康よりの起請文をうけた大沢基胤は以後徳川方の一員として各地の合戦にのぞんでいる。
元亀3年(1572)の三方原合戦や天正3年(1575)の長篠の合戦に参加して武功をあげたことが『寛政重修諸系譜』にみえている。
その基胤は慶長9年(1614)6月28日他界している。享年80歳。法号は『月江院殿雪天長盛大居士』
江戸小石川の祥雲寺に墓碑がある。

基胤の時代基宿も武将として戦国の世を生き、転戦を重ねている。
天正8年(1580)5月には駿河国田中城攻めに加わり、天正10年(1582)には沼津の合戦に出陣し、本多作左衛門重次の軍で活躍、その後も小牧の戦い、小田原の合戦、関ヶ原の戦いなどに参加した。
関ヶ原の戦いでは抜群の功績をあげ、その論功行賞で庄内半島を中心とする遠江敷智郡内六ヵ村千五百五十余石の地をたまわっている。
そして慶長14年(1609)には右近衛権少将に叙せられ、さらに権中将にのぼり高家に列せられている。
高家と言うのは江戸幕府の場合には幕府の儀式や勅使の接待、朝廷への使者などを担当した名家のことで、『貞丈雑記』には『高家の始まりは大沢兵部太夫基宿、吉良上野介義弥、大沢左京亮重比仰付けられしが、始めと見えたり』としるされている。


堀江城最後の主となった基輔は文久元年(1861)には皇女和宮の降嫁のとき供を果たし、慶応3年(1867)の大政奉還のときには将軍の辞表を宮中に伝奏する役割をつとめ、明治4年(1871)の廃藩置県にともない堀江県が制定したときには県知事になった。
堀江県は5ヶ月後には浜松県に合併されたため基輔は遠江を去り、東京に移住して明治44年(1911)病没した。
先の『高家の話』は基輔が自分の経験した維新時代のことも語っている。

以上、一部修正を加えて抜群した『大沢氏について』でした。

('▽')ノ