御所の今川館(義元公449回忌を偲ぶ特別企画)

桶狭間の戦いから449年が経ちました。 この歴史的『節目』を記念して今川義元公の追善ブログを立ち上げようと思います。 え?何が節目だって?別にいいじゃんどうだって♪ てかただのブログじゃん?( ̄ロ ̄;)来年は大きなイベントがしたいね(桶狭間450回忌)


香掃除(こうそうじ)とは

室内が喫煙その他で空気が汚れ、臭気が充満した時、その臭気を消すために香をたくことを言う。

室内が汚れていなくとも、貴人を招いた際には香をたくことがある。

中国ではこれを炷香掃除と言う。


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お客さんをお招きする時に掃き清める掃除だけでなく、その空気までも掃除するという発想は

『お客さんをいかに大切に思うか』

『お客さんとのひと時を大切にしたい』

と言う『一期一会』の精神の表れとも言える。

('▽')ノ


香をたくと言う習慣は最近ではめっきり廃れてしまったが、現代で言えば『アロマ』と表現しても差し支えなかろう。

香りを楽しむと言うのは昔からあったのだ。

ちなみにワシは白檀、檜、ラベンダーの香りが好きだ。

('▽')ノ


香となると道具としては香炉、香合が必要になってくる。

今川家伝来の『青磁 千鳥香炉』についてはまた別の項で紹介するとして、今日はこの香合を紹介しよう。

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さて、この香合、どこの産地の焼き物でしょうか?


(・ω・)y-~~~ポクポクポクポク♪



(・ω・)y-~~~ポクポクポクポク♪



(・ω・)y-~~~ポクポクポクポク♪



(・ω・)y-~~~ポクポクポクポク♪



(・ω・)y-~~~ポクポクポクポク♪


('▽')ノチーン♪
       (・・・古いな)


答えは萩焼です。山口県の焼き物じゃね。

haginokougou2


何年か前に『全国陶器市』てやつで見つけたの。

あの陶器市って料亭のお膳によく出るようなちょっと派手な器が多いのだが、正直家庭じゃ使いにくい。

取り合わせとか難しいの。

焼き物が自己主張するもんだから、料理が引き立たない。

値段もそんなに安くないし20軒くらいある店でも欲しいと思うのは1、2軒。そしてその1、2軒の店の中に気に入ったのは1つあるかないか・・・と言ったのが毎回見た結果だった。

ゆえに最近では陶芸の参考に『形』だけを見に行き、買わない(欲しいのないもん)事にしている。


その中で、これはいいなと思ったのがこの萩焼の香合だった。

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唐泊山 喜村皓司さんの作品だ。

ただ、まだ一度もデビューさせていない。ウブな香合である。

そのうち我が館でも活躍する日が来るだろう。

前回の続きを行きます。

甲陽軍鑑によると、

駿河の人々は
「あの山本勘助は片輪者だ。自分で城を持った事も兵を指揮したこともないのに、城取りや軍法を知ってるわけがない。今川家で奉公されたいために虚言を申している」

と噂したそうだが、『片目で指も足も不自由なのに剣の達人であるわけがないし、城を持った事も草履取りすらいないのに、軍法やら兵法やらを知っているわけがない』と言うのは・・・いや、普通そうじゃない?

武芸に秀でていれば、そんなあちこち体が悪いわけがないし、軍法に明るいなら庵原の所で居候していたんでしょ?庵原の元で功績を立てて『実績』をあげればいい。

2、3回の手柄があったというが、仕官していないのに手柄をどうやってたてるのか?

それとも『庵原付き待遇』だったために庵原に功績を取られたとでも主張するのか?

曰く
『これは今川家が万の事を失い、家も末となって武士の道に不案内になっていたため、勘助の評価が落ちたのだろう。』

と言うが、そんな『家も末となった今川家』に仕官しようとする勘助にも疑問だ。
倒産が目に見えている会社に就職するか?


今川家が後にどうなったか知っている人物が後世に甲陽軍艦を書いたから時代錯誤な内容になるのだ。

曰く
『臨済寺の雪斎和尚(太原崇孚雪斎)が唐の本によりながら義元公に意見を申し上げていた間は、駿河?遠江?三河の政治は正しく行われ、尾張の織田弾正忠(信秀=信長の父親)も駿府へ出仕していた』

にしても花蔵の乱直後であれば今川の勢力は尾張どころかまだ三河すら手中に収めていない。

信秀が今川家に仕官しているのも、よくわからん。


甲陽軍艦がデタラメな内容であるのはこれだけで十分ご理解された事と思う。


しかしまあ、そんな事を言ってしまっては面白みはない。
(・艸・)


せめて、これが史実であったと仮定してみるか。
仮定すらむずかしいがな(-.-)zzZ

何故勘助は仕官できなかったのか?

勘助を世話していたとされる庵原氏と言えば今川家の重臣であり、雪斎の実家である。
勘助を推挙したのも雪斎に極めて近い血縁となる。

その重臣が一人の浪人を登用するのに朝比奈氏の口添えが必要となるか?

必要となるとしたら、勘助がただの今川家臣を望んだのではなく、馬廻衆(義元直属の親衛隊)の『参謀職』(軍師と言う表現は誤解があるため避けたい)として義元に直接お仕えするのを望んだためではなかろうか?


朝比奈兵衛丞なる人物が馬廻衆の人選に一定の権限を有する人物であるとすれば、納得がいく。


この場合、朝比奈兵衛丞は遠江掛川の朝比奈氏というよりは、駿河朝比奈氏である可能性の方が高い。
駿河朝比奈氏であれば、この時期に活躍して権力の中枢にいた人物???となると朝比奈親徳しかいないだろう。


朝比奈親徳(丹波守、駿河守、元長)は現存する資料では天文5年(1536)から永禄5年(1562)に活躍した人物であり、関口氏広とともに松平元康の後見人も務めていた。(永禄2年5月16日の松平元康定書を根拠とする)

しかし・・・まあ・・・

この仮定難しいわw

だって甲陽軍鑑、おかしいもん!!


(・ω・)y-~~~



すまん、サジ投げた┐(⌒ー⌒)┌

山本勘助とは?

NHK大河ドラマにもなり、すっかりメジャー人物となった山本勘助は、武田信玄の軍師として有名であるが、以前までは架空の人物とされていた。


山本勘助が名軍師として有名であるにも関わらず 「実在しない」 と言われ続けたのは、彼の伝記が『甲陽軍鑑』と言う江戸時代初頭に書かれた本にしか残っておらず、かつ甲陽軍鑑が内容の信憑性から歴史資料として価値の低いものと位置づけられていたためである。


しかし山本管助(勘助)なる者が武田信玄の使者として口上したと言う文書が北海道釧路市から出たため、一躍『実在説』が有力となった。

こうなると軍師の名が一人歩きし始めるのが日本の面白い所だ。
山本勘助の愛用の鎧兜だの山本勘助の墓だのがクローズアップされ、大河ドラマを契機に観光スポットとして市町村も集客に力を入れておられたが、ここでまず言いたい。

山本勘助なる人物が武田家に実在していたとしても、それが甲陽軍鑑に載るような名軍師だったと裏付けるものではない!!



現在、山本勘助について調べると、そのほとんどが甲陽軍鑑からの出典となる。

ワシは甲陽軍鑑の記載内容自体を眉唾物と考えるが、今川家が関連した話が出てくるため、それを無視するわけにはいかない。

ではここで彼の駿河での履歴を調べていきたいと思う。

以下は、甲陽軍鑑を訳した記事である。

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 今川義元公が駿河を治めていた頃、山本勘助は三河国牛窪(うしくぼ)から駿府へ義元公への仕官を望んで参上した。
その風体は大変醜く、片目しか見えず指も足も不自由だった。
 しかしその容姿にも関わらず、勘助が大剛の者であったので、彼を自分の屋敷で世話していた庵原氏は家老の朝比奈兵衛丞を通じて

「山本勘助は大剛の者です。城取りや陣取りなどの軍法についてよく鍛錬しています。京流の兵法も上手です。兵の指図の仕方もよく知っています。」

と今川義元公に上申したが、義元公は登用しなかった。


 駿河の人々は
「あの山本勘助は片輪者だ。自分で城を持った事も兵を指揮したこともないのに、城取りや軍法を知ってるわけがない。今川家で奉公されたいために虚言を申している」
と噂した。

勘助はその後、9年間駿河にいたが今川家では登用してもらえなかった。

9年間のうち、2,3回手柄があったが
「新当流こそが兵法の本物である」と人々は噂した。とくに勘助が浪人で草履取りの一人も召抱えていなかったので、勘助を悪く言う人はいても、良く言う人はいなかった。

これは今川家が万の事を失い、家も末となって武士の道に不案内になっていたため、勘助の評価が落ちたのだろう。

臨済寺の雪斎和尚(太原崇孚雪斎)が唐の本によりながら義元公に意見を申し上げていた間は、駿河・遠江・三河の政治は正しく行われ、尾張の織田弾正忠(信秀=信長の父親)も駿府へ出仕していた。

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甲陽軍艦によると、山本勘助は武田信玄に仕官する前は駿河で就職活動をしていたらしい。

武田信玄が勘助を雇ったのが天文12年(1543)とされているので、それに基づいて逆算すると(天文12年−9年間)、最低でも天文3年(1534)頃までには三河から駿河へと参上していた計算となる。


天文3年の静岡の資料を見ると、この頃は今川氏輝の時代であり、氏輝が家臣へ所領を安堵したり、下向していた公家の冷泉為和が和歌を詠んだりと言う資料がほとんどである。


義元に仕官を願い出たとすれば、天文5年(1536)6月の『花倉の乱』以降でなければならない。


※花倉の乱=花蔵殿・花倉等呼び名はいくつかある。栴岳承芳(今川義元)と玄広恵探(義元の異母兄)との家督争い

この時点で時代が合わない。


次回に続きます。

利休さんが、ある年の口切の茶事に、古い丸釜を出した。

お客さんたちはみんな釜について色々と尋ね、茶を堪能して楽しいひと時を過ごした。


さて、その時の客の一人が、ある時、その釜に良く似た丸釜を用意して茶会を開いた。

その茶会に招かれた利休さんは

利休 ┐( ̄ー ̄)┌
『人が出した丸釜とよく似た釜を出されても面白みもなにもない。

人が丸い釜を出したら自分は四角い釜を出すなどがいいのだ』


とたしなめたと言う。


人まねしたって面白くない。
自分は自分の茶の湯をすべきだ、というのが利休さんが常々言っていた言葉だ。

これを茶道では『作意(さくい)』と言う。もっとわかりやすく言えばセンスであり、発想、着意だろう。

歴代の家元さんはなかなかの作意の達者な方々ばかりで、新しい棚を作ったり、イスに座っての作法を作ったり、当代さんは胡坐(あぐら)での点前を考案された。


さて、そのお弟子さんたちと言えば…

歴代の家元さんの点前を練習する事が専らで、

『あそこが違う』 『ここが違う』

と作法マニュアルに完全に則ったもののみを追求される。

ちょっと反発するのは

『畳■マス目に置くように。1マス右に・・・そこじゃないのよ。あと5センチ右に寄せて。そうです。』


などと言う指摘だ。まあ、慣れてくると言われなくても置いた場所がほぼ定位置になる。

定位置と言われると難しいが、スッと手を伸ばした先に茶碗を置くとちょうど客付けになったりと、自然なスタイルが一番しっくりくるようだ。

『ちょっと、これ置きにくいな』と思ったら、大概間違っているから先生に直してもらう事。

※ただし、棚のない点前の話なんだけど、お仕舞いの時に建水の側に蓋置を置くシーンは非常にやりにくいと思う!!

基本形は大事だが、あまりこだわると心がついていかない。

稽古はともかく、茶会の時はもてなす心が一番大事。稽古でも心の特訓をしないと家元さんの真似ばかりでは流派の作法だけに固まってしまいますよ。

(-.-)zzZ


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そろそろ出番かな??

黒楽の平茶碗(夏によく使われる。茶が早く冷めるから暑い日も飲みやすい)

茶の湯で亭主(お茶を点てる人)自らが自分で立てたお茶を飲む事。

亭主がお客さん全員に薄茶を出した後、正客(お客さんの中の第一主客)は亭主に

m(_ _)m 『どうぞ、御自服で』

と挨拶をする。

亭主はお茶を点てた茶碗を客付(亭主が右手でお客さん側に茶碗を置く場所のこと)に出し、釜に水を一杓さして客付に向いて(お客さんの方向に体を向けること)

m(_ _)m 『お相伴をいたします』

と挨拶をし、お茶を飲む。


この場合、正客は菓子器を亭主に勧めるが(要はお菓子食べてねって意味)、亭主は菓子をとらない。

茶を飲み終えると茶碗を持ったまま、点前座に戻り、お仕舞いにかかる。

自服は薄茶の場合で、濃茶には自服と言うようなことはない。


これが茶道の専門書に載る自服である。

お茶を教室で習っていたら、自分の点てたお茶を飲む事があるけど、これは教室は練習の場であるし、自分の点てたお茶が美味しいかどうかを自分で判断する必要があるからだろう。

ついでにお菓子は勧められたら遠慮なく食べてしまうのは、まあご愛嬌
('▽')ノ

て事で館でワシがお茶を点ててみた。

tyatokasi

茶碗は15年前に京都の銀閣寺境内で求めた黒楽茶碗。
菓子は親戚から送られてきた南蛮のネズミ模様(泥図煮井乱土)の菓子(クッキー)
菓子器に使われている四方皿は御所の自作


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定恵院 ('▽')ノ
『御所も自服でどうぞ』


御所 (;▽;)/~~
『じゃ俺、菓子食えねーじゃん』